雑感コラム2013年8月


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□コラム更新記録

   ・8/3 昔の家電と今のネット   ・8/10 圧巻のドラマにみる示唆   ・8/19 8月という月   ・8/24 旧交あたたむ8月

  旧交あたたむ8月

2013年8月24日(土)


 久しぶりの雨。大阪市は昨日まで17日連続の猛暑日、71年ぶりに記録を更新したとか。むし暑いけど、今日の雨は一息つく。地下鉄車内の冷房がよく効いて感じられた。昨日は処暑、名実ともに早く和らいでほしい今年の暑さ。


 そう言っている間にも8月も残り一週間。ふりかえれば今月は旧知の人と会うことが重なった。久しぶりに消息のわかった人もいる。大隠居のUさんは別として、皆それぞれ自分の道を求めて歩んでいるのが共通。


 彼らのやっているもとをみると、自分の普通さがよくわかる。人生ってわからないものだなぁとしみじみ思わされることもある。やはり人間、自分の性(さが)からは逃れられないものなのかと。


 人生の半ばにきて、そう気づき、自分の歩みを再設計できたとしたら、仕合せなこと。場合によっては、本人の身近な人たちには青天の霹靂で、軋轢や葛藤を生み、双方にとって苛酷な局面はある。それはもとより覚悟の上。


 それほど劇的なことがなくても、大なり小なり葛藤を抱えながら自分の居場所、役目を考え仕事し、それぞれに。たまに会って、そんなこんな話を聞くにつけ、別れ際には、「おたがいまたがんばろう」と励ましあうのだった。


 大隠居のUさんは今年91歳。いつか来た道にいるわたしたちにかける言葉、「まだ若い、人生これから」。






8月という月

2013年8月19日(月)


 過去の記録をやぶる酷暑。残暑厳しく、さすがに少々ウンザリ。人にくらべて元気なのがさいわい、熱帯夜でもなんとか睡眠はとれて、今のところ、夏バテは感じない。感じないのがいいのか、わるいのか。熱中症で救急搬送される高齢者の例をみると、あまりよいことでもないのかもしれない。とにかく、はやく涼しくなってほしい。今週23日は処暑。


 さて、お盆ウィークも終り、8月中まだ夏休み気分を残しつつ、9月に入ると年末まで一気に滑走。それを思うと、8月のムードが名残惜しい。子供の頃、夏休み期間が刻々と短くなっていくことに何となく寂しさを感じた。その記憶がよび覚まされるのか。平日の昼下がり、町なかは静か。小さな裏庭の縁台に寝そべり、空をみては地面をみる。子供ながらに森羅万象を感じた夏。


 8月は毎年、こういうノスタルジックな気分になる。夏のピークから終りへ向かう月であることと、誕生月でもあり年を一つまた重ねて自分にとっての新しい一年が始まる節目を感じるからかもしれない。本当は月末までに一日だけでも小さな旅をしたい。どこか遠くへ行きたい。それはしばらくお預けだけど、夏の夕空をみて、それに代えよう。街なかに小さな旅情をみつけるものまた一興。






圧巻のドラマにみる示唆

2013年8月10日(土)


 今週もまたクーラーが稼働していない。先週管理会社へ電話をしたが梨の礫。日本の強さは現場のオペレーション能力の高さにあったが、それも今は昔。何の連絡もないことは予想していた。今週は連絡するのはやめた。それにしても暑い。ただ、陽射しの強さは微妙にかわった。サングラスをかけなくてもしのげる。蝉の鳴き声もボリュームが小さくなってきた。朝、鳴き始める時間も遅くなった。厳しい残暑の中に小さな秋をみつけて、涼をとる。

 さて、8月も中旬、お盆休みモードの世の中。下旬もその緒を引きつつ、年末までの滑走に思いを馳せ、気力・体力ともに充電する、あるいは下準備をする時期が今。日頃後回しにしていることをやるのにもちょうどいい。そんなこんな8月中にやっておこうと思っているのが、高齢の知人ふたりに会っておくこと。お一人は先日会いに行った。3年ぶりだったが、あいかわらずお元気、84才とは思えない。結局5時間もなが居して、人生物語を聞かせてもらった。

 もうお一人は今年90歳、ずっと気にかけてくれ、時々電話がある。さすがに声の力は弱くなったが、頭の回転は衰えていない。必ず今の政治の話をされる。戦争の経験があるから、国のあり方、行く末にいつも問題意識がある。一方で、「恋がしたい」が口癖。若い頃は家族を悲しませることも少なくなかったそうで、晩年は妻孝行に努めていた。この方も前回会ったのが3年前。月末までには会いに行こう。

 それ相当の年月を生きた人の話を聞くのは興味深い、たのしい。戦中、戦後、激動の時代を生きた、生き抜いてきた、その圧巻のドラマ。時代は違うが、何を思って、どう生きるか、その本筋をみせてもらう。「自分の話ばかりして、こんな話でよかったの?」と帰りがけに聞かれたが、そういう話の中に示唆がある。聞き手の状況に照らして読み取るものがある。それを咀嚼し、指針としてまた日々を生きる。それはまた次の世代に伝わる。

 一人の過去はいずれ消えていく。でも誰かの知恵の一端として残っていく。そう考えると、人との出会いの意味はまた大きい。






昔の家電と今のネット


2013年8月3日(土)


 今日も厳しい暑さなのに、ビルのクーラーがかかっていない。同じフロアの一番古株の会社は今日は休業。その他は出社。そこで古株2番目の当方が管理会社へ電話。留守番だけなのでわらかないと言うが、「出社されている会社も多く、これでは仕事にならないと思いますよ」と一言。すると、担当者に電話してみると言った。今はケータイもあり、連絡はすぐつくはず。でもこういっ対応の能力が落ちているのが昨今。イレギュラーなことへの処理こそ、能力の発揮どころなのだが。

 このことを考えてみると、そもそも感度の問題があるのかもしれない。その前に想像力の欠如ということかもしれない。いま起こっていることがどういう状況をもたらしているのか、もたらすのか、漠然とでも一瞬にわかるのが人間の基本的な能力、防衛本能の面からも。デジタルな生活様式が進み、暗黙のうちにわかる、一瞬にして危機を察知する、そういった能力の低下を見てとる、深夜に女性が一人でぶらぶらとスマホを見ながら歩いている姿に。

 昨日の新聞に子供のネット依存に関する調査結果が紹介されていた。「病的な使用」に警鐘を鳴らしていると書いてあった。もっと大きな声を上げた方がいいと個人的には思う。親子一緒にいるのに、親がケータイやスマホに集中して子供を見ていない、会話していないといった光景は一般化、今は小さな子供も大きな親も互いに画面に集中して、一緒にいながら、別々の感。近所の大人に叱られるという経験も今は少なく、子供の脳はどう育っていくのだろうといつも思う。

 見て、聞いて、触れて、嗅いで、味わって、何かを感じ、考える。生きることの出発点はそこにあると思う。特に、見る、聞く、触れる感覚は思考に大きく作用する。調査の紹介記事には依存に陥っていた女性の例も紹介されていた。依存から脱してよかった。今はスマホを持たないようにしているという。とにかく、昔の家電のような生活労働を軽減するものと、今のネットのような情動に働きかけるものとでは、自分の受ける効用は違う。こういった違いを漠然とでも一瞬にわかることが大事なんですけどね。


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