雑感コラム2014年1月


<前月のページへ  次月のページへ>

□コラム更新記録

   ・1/4 年賀状   ・1/11 別な人の役にたって   ・1/21 春を待つ   ・1/25 「そこに先生が立っている」

「そこに先生が立っている」

2014年1月25日(土)


 久しぶりに軽いコートを着て出た。昨日今日は三月並の気温。昨日は陽射しも強く眩しかった。でもまた寒くなるから、まさに季節の変わり目、体調管理に注意。梅の便りも届き始め、冬色の装いが映えなくなってくる。そろそろウールのマフラーも降板。


 一月も残り一週間。小澤征爾さんの「私の履歴書」も最終回がせまってきた。このところは真っ先にこのページを読む。今日の回などは何故かしら涙がこみあげてきた。


 「人は死んでも魂は死なない」という言葉がある。本当にそうだなぁと実感して久しい。13歳で出会った塾の先生。学科の勉強以上に多くを学んでいたことを、うんと後になって再認識した。否、再発見したと言った方がいい。


 小澤征爾さんは、『そこに斉藤先生が立っている、と思った』と書いた。そう、そういう瞬間を経験した。いかに自分の中にしみ込んでいたか、はたっと気づき、目の前に姿が表れた。独立してからのことだった。


 どれほど恩恵を受けていたか知れないのに、そのことをあまり意識することがなかった。今ではわかるが、意識させないほど、事も無げに恵みを授けてくれていた。


 表面的なやさしさでない、真のやさしさ。精神の厳しさの中にそういうものは見てとっていたものの、やはりこわかった。気安く話せないし、近づけなかった。でもイザという時には会いに行っていたから、精神の拠りどころであった、ずっと。


 独立し、世の中の前面に立って仕事をし始め、にわかに際立った自己。あまり人と比較して生きてこなかったが、否応なく意識させられた。どういう風にし今の自分が出来あがったのだろうと。


 教育には長い目が必要なのだと思ったのもその時だった。今教えていることが今わからなくても、将来のいつかわかることがある。場合によってはずっとわからない可能性があるが、教えるべきことを教える。先生はやばり先生だった。


 塾の門下生たちは相当数いる。仕事のフィールドは異なるが、先生から受継いだものを自分なりのカタチにして、それぞれの現場で次へつないでいると思う、長い目をもって。





春を待つ


2014年1月21日(火)


 寒中、厳しい寒さが身にしみる。でも次の二十四節気は立春、日の入りが少し遅くなり、日の出もわずかに早くなった。節分、パレンタイン商戦もそろそろ。来週金曜日は旧暦の元日。今年は立春とも日が近く、二月の始まりと同時に一気に迎春。


 春を待つ、この時期がいい。何事もその真っ只中というのは身も心もそれにうばわれ、意外に創造性は喚起されない。はざ間には曖昧さ、混沌がつきものだが、それだけに精神に緊張感が出て、感性が刺激される。


 仕事柄、自分の進む道のはざ間にいる人と会う。本人にとっては悩ましいわけだけど、その時期こそ、すぎてみれば有意義な期間。そう言われているし、個人的にも経験。だから勧める、迷いを多様な学びの機会とするように。


 そういう時の学びは質は高い。感度が高まっている分、集中もし、吸収も早い。そうこうしてある程度すると、創造性も喚起される。自分では気づかない間に何か独自なものが養われている。それが次の時機をとらえる。


  「この世の春」ならぬ、「自分の世の春」を待つ人に、よい春を。


 




別な人の役にたって

2014年1月11日(土)


 寒さがしみる。冬晴れながら、寒さは厳しい。こういう時こそ体を動かした方がいい。最近デスクワークを優先して散歩の頻度が低下。先日久しぶりに里山を歩いたら、1時間ほどで足にきた。これはマズい。体全体の健康度が落ちかねない。今年の計の一つに運動をいれるとしよう。



 “昔は大らかだったなぁ・・・”と日経の『私の履歴書』を読む。このコーナー、読まない時はまったく読まない。読む時は熱心に読む。元日からの回はたのしみに読んでいる。初回に小澤征爾さんご本人も書いていたように、たくさんの人のお世話になって今ここにいるという気持ちがよく伝わってくる。


 今朝の回などは過去の出来事の日付までちゃんと書いてあるから、しっかり記録を残してるいる様子。戦後の復興期、平和をかみしめ青春を謳歌するその仕合せを、客観的にとらえる目があったのかもしれない当時の人たちには。記録したくなる気持ちが自然にわく。点でものを考えていたら、記録する気はおこらないのではないか。


 昨日の夕刊には、西川きよしさんが小学校の時に出会った先生との縁を語っていた。みんなそうして生きてきている。しみじみそう思う。その恩をそれぞれに返せるわけではない。すでに他界した人もいるし。だから誰か別な人の役に立って返すというのが人間社会。そういう気持ちをもっている限りは、天から見守ってくれていると思う、お世話になった人たちが。




年賀状

2014年1月4日(土)


 済生会病院も今日から診療を始めているのか、中津駅そばの薬局が開いていた。街は今日からいつもの日常。違うのは電車の中の乗客たち。家族づれが多い。それぞれ元の場所にもどる風景。


 事務所のビルも今日は鍵がかかっていなかった。ドアを押し、右手に並ぶ郵便受けを見ると、何箇所かは、まとめて配達された新聞の束で口いっぱい。35番から郵便物をとりだし、3階へ上がる。同じフロアーでは一社の室内に灯りがついている。


 加湿器の水を入れ替え、オイルヒーターのスイッチをいれる。すぐに暖かくならないのが難。今日は長居しないから、帰る頃にちょうどよくなるはず。肩を少しすぼめながら、年賀状に目をとおす。


 例年当方の新年のご挨拶は旧暦の元日を待って。時差があって少し申し訳なく思いながら、一枚一枚読む。旧知の間柄でも、メッセージ型の年賀状に、今さらながらにその人柄を思う。


 こうして便りをいただくということは、まずはみなさん元気ということ、気にとめてもらっているということ。リーズレターを出す時、躊躇する相手もいるが、とりあえずは元気なことを伝えるだけでも意味はある。そう思い直した。


 それにしても、考えてみれば年賀状というのはおそろしい。リーズレターのように一定の分量の文章とは違って、基本的には短くて形式的。葉書面に“形式”しか表れない場合もあれば、ほんの一言に清々しい親密さが表れる。


 表れる、表す。人間関係、社会活動の尽きないテーマ。技術的なことで済まないだけに難しい。それはさておき、明日は「小寒」。寒さは厳しくなるが、「立春」もそう遠くない。

 

ページ先頭へ